視聴者の好みも細分化している

以前とは違い、私たちは縦横無尽にあらゆる情報を得ることができるようになりました。それは「インターネット」のおかげです。それまでは情報は受動的に得るものでしたが、現在では能動的に「探す」ことが容易になったのです。

インターネットはこの15年間で新しいインフラとして定着しました。私たちは現在ではインターネットに関わらない日はなく、逆にテレビやラジオに接しない日があるほどです。インターネットではさまざまな情報を参照することができます。情報はインターネット上に散在しているのですが、それらを取りまとめて調べやすくする技術も発達したのです。私たちはそれらの現代ならではの技術を駆使して、あらゆる情報を調べることができるようになったのです。

その結果、「メディア」の価値が薄れつつあります。私たちがそれまでは情報といえばテレビやラジオ、そして雑誌といったものしなかったのですが、現在ではインターネットで自分の知りたいもの、見たいものを簡単に調べることができるのです。そして「テレビ番組」でさえもインターネット上で配信されてしまうようになっています。それらの番組はCMをカットされ、パソコンでストリーミング視聴できるように加工されたものです。本来は、そのような処理をして配信することは禁じられています。

私たちは「退屈な時間」の潰し方をインターネットに求めるようになりました。もはやパソコンだけではなく、携帯電話、スマートフォンにおいてもインターネットは密接なものです。そして、「自分で調べる」という「検索行動」によって、私たちは見たくないものは見ないというスタンスを実践できるようになったのです。

そのような時代になってしまっては、自然と人の「好み」は細分化されてしまうものです。同じジャンルのものであっても自分の好みを追求していけば人とはちょっと違う、そのような具合です。好みは細分化され、追求され、深いところで共感出来る人と繋がるようになります。それらの流れは一度の放送で沢山の人に視聴してもらいたいはずの「番組」にとっては脅威なのです。

「誰もが楽しめる」という内容がだんだん狭くなってきているのです。誰にでも受け入れてもらえるという内容が実現しづらくなってきているのです。それは視聴者である私たちの好みが細分化したからであり、テレビでしか得られないような情報がないからでもあります。エンターテイメントですら「インターネット」で追い求めることができる現在では、テレビやラジオの独自性をどのようにして保つのかがポイントになっているのです。

その番組でしか得られないもの、その番組でしか感じることができないもの、「唯一」なものを織り込まなければ、これからの「番組」はやっていけないのです。誰も視聴しなくなれば、「看板」としての価値が低くなり、スポンサーがつかなくなってしまうからです。実際、インターネットの広告市場は今では一大市場になっているほどです。広告費を投じるメディアのひとつとして、インターネットは重要な位置を占めてしまいました。テレビやラジオに投下する予算が、インターネットに削られているといってもいいのです。そのような世の中での「番組」に求められることを、考える必要があるのではないでしょうか。